戦後間もなく先代の社長(私の父親)は、戦前に身につけた金型技術を生かして東京の新小岩に金型工場を設立しました。まだ電力事情が悪い中、思うような操業が出来ずに苦労したそうです。その後、朝鮮戦争の特需により資金を得て、設備を導入し雇用を増やし事業拡大を進めました。
当時は、カメラの外装部は真鍮の絞り加工で作りましたので、絞り金型の技術を生かし、カメラメーカーからの受注を増やして行きました。
しばらくしてプラスチック射出成形の技術が確立され、カメラの外装部や機構部品はエンプラに代わり、それによってかなりのの受注減となりました。
しかし、これまで培ってきた金型技術とノウハウを駆使して精密プレス部品の金型設計製作・精密プレス加工へと移行してきました。
東京の工場も手狭になり、地方へ工場を移転する事になり、候補の場所を探していたところ、茨城県御前山村の廃校が見つかりました。当時の村長は地元住民の雇用確保のため、製造業の誘致を希望していました。そして昭和44年に御前山の地に工場を移転し、社名も「御前山精密」としました。今でも事務棟は昔の木造校舎を使用し、訪問者が懐かしいと言ってくださいます。
当時の御前山村は農村の過疎地で、国道123号線も舗装されてなく、水戸や宇都宮へ行くのに2時間もかかるような場所でした。
工場移設後、地元の人を従業員に採用しましたが、農繁期になると多くの従業員が欠勤して、納期に支障をきたす事もあったようです。農業の他に収入源が無い地域でしたので、積極的に地元の人を採用しました。しかし、機械も見たことがない、検査器具も使った事がない、図面も初めて見るという人ばかりで、教育と訓練に力を入れて育成してきました。
従業員から「御前山精密に勤めたおかげで子どもを大学まで進学させるを事が出来た」と言われることがあります。地域社会で事業を営み、地域社会の人たちと交流を深めながらこれからも地域とともに活動を進めたいと思っています。
代表取締役社長 髙橋 賢吾
|